Forestlog founder 

                Kazushige Fujita

藤田 一茂 

Birth  1988. Jan. 24

From   Miyazu, Kyoto

Live in  Miasa, Nagano

 15歳でスノーボードと出会い、20歳からプロスノーボーダーのキャリアが始まる。TOYOTA BIG AIR等のコンテストでの活躍を経て、現在は制作活動を中心に国内外問わず旅へ出てはスノーボードの魅力を体現し発信している。クリエイティブな事を好み自らも映像制作や企画プロデュース、ライターなども務め、滑りの追求だけではなく表現者としての道を歩んでいる。また、自宅の畑では家庭菜園を営み、波乗りやスケートボード、四季を通して自然のリズムを追いかけている。未来のスノーボードの形を求め、今も何処かを旅しているだろう。

​Photo by Yoshiro Higai

Work  ---  プロスノーボーダー  / 映像制作 / ライター  / プロデュース

Contact

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 1988年1月24日、日本三景"天橋立”を有する京都府宮津市に生まれる。地元の高校へ進学後、科学や物理が好きであった私はその方向の大学を目指している最中、スノーボーダーと呼ばれる人種に出会い、今に至る。

 京都といえど、日本海側ゆえに雪と触れ合う幼少期を過ごした。自宅から車で15分ほどの場所には大江山スキー場(平成25年閉鎖)があり、スキー旅行を志した両親の指導で小学生低学年からスキーを始めた。年に数回の家族旅行や近隣のスキー場での滑走、記憶に残る幼少期の大きな旅行はほとんどがスキーに関わる事だった。中学生になるとゲレンデで見かけるスノーボーダーに興味を持つようになり、両親にレンタルを懇願する。スキー旅行に飽き始めていた頃だったが、新しい遊び道具を手にした私はより雪遊びを好きになった。

 雪が降る地域という事もありスノーボードをしているという友人は学校にも数人はいたが、ある友人の姉に連れられ滑りに行った事をキッカケに私のスノーボード人生は始まった。スノーボード入門セットを着こなした私はいわゆるスノボちゃんであったが、彼女はダボダボのウェアにゴーグルは鼻が見えないほどに低めに装着、当時のスノーボーダーを模倣したスタイルは当時の私にとっては衝撃的であった事を覚えている。その日はジャンプの大会か何かがあったと記憶しているが、そのジャンプで大きく飛ぶ彼女の姿を見た私は心の中で、"僕もこうなりたい”と人生で始めて何かになりたいと思う瞬間に出会ったのであった。

 その後、友人の姉には大変にお世話になり、地元の大人のスノーボーダーと多く繋がる事になった。近所の美容室やお茶屋、隣町のスノーボードショップ。ハーフパイプやスノーボードクロスという競技をやった事もないのに関わらず、大会に出ささるという無茶振りや極寒の雪山の車泊も今となってはいい思い出となっている。高校3年の冬には自宅から1時間半ほどにあるスキー場でパークのディガーをする事になる。高校卒業後に新潟県のスノーボード専門学校(JWSC)に行く事が決まっていた私にとって良い機会となった。パトロール小屋に寝泊まりし、ローカルスノーボーダーやパトロールの人達と一緒にパークを作っては滑る日々。シーズンの終わりには近隣のスノーボードショップWake Lip'sの店長から”ウチのライダーにならないか?”と誘われ、始めてのスポンサーを獲得する。多くの地元スノーボーダーの愛情を背負い、私は新潟県の妙高へ引っ越す事になった。

 

 新潟ではプロの背中を追いかけ同世代のスノーボーダーと切磋琢磨する日々を送る。当時から映像等に興味を持ち、自主制作ムービーの作製も行っていた。2年後の学校卒業時には全日本スノーボード協会の定めるツアー戦においてプロ資格を取得。卒業後の翌年2009年には国内最高峰のスロープスタイルの大会"THE SLOPE"において、名だたる国内のプロや外国人ライダーを抑えての優勝を果たし、全くの無名選手からのステップアップを果たす。しかし、翌日のフォトセッションでのクラッシュで左足脛骨を複雑骨折。選手引退を考えるほどの怪我に悩まされるが、友人の支えもあり復帰を誓う。怪我の間には当時サポートされていた韓国のアパレルブランドを輸入、自らWebサイトを立ち上げ販売を行い、ウェアを着ずにパーカーを着て滑るというブームの火付け役となった。その後一年半のブランクを経て、2011年、国内最大のスロープスタイルの大会"TOYOTA BIG AIR"では日本人最高位の5位を獲得。見事なカムバックを果たし、当時のスポンサーであったhead snowbaordsではインターナショナルチーム入りを果たす。以後数年間はコンテスト、映像配信、headインターナショナルチームでの活動を精力的に行った。

 2014年、カナダ・ウィスターを拠点に活動を行っていたHeart Filmsとの出会いをキッカケに新たな可能性を見つける。スノーモービルを駆使しバックカントリーのフィールドで映像制作を行う彼らの姿は世界的なシーンを見てもトップクラスの活動であり、ムービースターと呼ばれるプロライダーへの仲間入りを果たすチャンスであると確信した。当時、若手の台頭や実力的にもコンテストに疲れていた事、単純にトリックを追い求めるというコンテストの生活に飽きていた私は、次のステップを目指しスノーモービルの技術、バックカントリーでの経験値の取得、子供時代から憧れていた海外でのフィルミングという舞台での活躍を目指した。4年間の仲間と挑戦の末、カナダBC州の有名なフィールドを網羅。アラスカにもスノーモービルを持ち込み、日本人クルー

の実力をスノーボーダーの憧れの地においても証明する事となった。2017年の作品 Heart Films "Beyond"に記録されている。

 この間も映像制作やライター、フォトグラファーとして実力も磨き続け、それらの作品は様々な媒体に掲載、各パートナーブランドとの映像企画や制作などのPRプランも手掛けるなど、プロスノーボーダーとして唯一無二の存在として名実共に認められる存在となった。また、イベントの企画や運営においても活動を行なっていたが、中でも小・中学生向けに行なったVintel Summer Snowboard Campではスノーボーを通じて心身の成長を図るをテーマに、技術のみではなくアウトドア、物作り、目標設定の仕方など様々なアクティビティを通じ、スノーボードの可能性を広める活動を行なった。キャンプ参加者には現在オリンピック候補となっている選手も参加しており、当時のキャンプトレーナーが現在も選手のサポートを行っている。

 2016年には東野圭吾著"雪煙チェイス"の表紙写真にフォトグラファー板原健介との作品が採用。プロスノーボーダーとして出演、アドバイザーも務めたDiamond route Japanの作品は120万回以上再生され、岩手県久慈市では地域創生事業の一環として、全国大会へと繋がる事が出来る藤田杯バンクドスラローム大会を主宰。スノーボードによる地域の活性化にも取り組んでいる。

 現在、私は世界中のスポットをリサーチしながらスノーボードの可能性を探求し、様々な媒体を通じその表現を行なっている。2016年以降、Gentemstickとのパートナーシップを結び、”形の違う様々なボードを所有し、場所やコンディションに合わせボードを選び、乗る”という持続可能なスノーボードの楽しみ方を広めている。滑り手としてだけではなく様々な顔を持つ表現者として、これからも私の旅は続くだろう。

Partners  

ForestlogはForestとLogからなる造語。

木々の年輪に刻まれた時間は世界の大きな流れをも私達に知らせてくれる。

私達は目の前に映るその瞬間を記録し、新しい未来を創造する。